昭和時代の田無小
更新日:2011年11月22日
昭和16年、田無国民学校と改称、戦争の被害は田無小にもおよび、昭和20年4月には校舎も被災しました。(中島飛行機製作所が武蔵野市にあったことに大いに関係しています。)
終戦当時、8千人まで減少した田無町の人口は、戦後に急増し、たちまち1万人を突破し、昭和22年には1万5千人に達しました。
この年の田無町の新生児は700人という多数であり、田無町として二番目の小学校建築を考えなくてはいけなくなりました。それが谷戸小です。
さて、この年、昭和22年に新しい学制により、田無町立田無小学校と改称。その、6年後 昭和28年には校歌もできました。
昭和29年4月。谷戸小の校舎新築工事が終わるまで、当時あった南校舎を借りて谷戸小が開校。入学式は田無小・谷戸小と校庭で合同で行いました。700名の新入児童が校庭いっぱいに整列し、その外側に同じ数の保護者が参列して、文字通り立錐の余地のない盛大な入学式だったそうです。そのような訳で、田無小も谷戸小も、しばらくは4年生以下は二部授業だったとのこと。