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西東京市立明保中学校
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明保中学校の歴史一口メモ

更新日:2019年3月29日

明保中学校の歴史Q&A

 明保中学校の立っている場所は元々は東洋光学硝子製造所(保谷ガラス)の工場がありました。保谷ガラスは昭和16年(1941年)11月にこの場所で創業して光学ガラス製造をおこなっています。その痕跡のひとつとして今でも校庭からは、当時のガラスの破片が出てきます。この保谷ガラス、現在HOYA株式会社ですが、社名は保谷の地名に由来しています。
 その後、東京教育大学、現在の筑波大学のグランド、農園となりました。現在でも、明保中学校の北東には筑波大学付属小学校保谷田園教場があり、筑波大付属の小学生児童が学習で訪れています。当時の筑波大学のグランドは400メートルの準公認トラックがあり、学生が陸上競技やラグビー等の競技に汗を流していたようです。一方の農園には美しい、しだれ桜があり、春には花が咲いていたと記録には記載されています。


本校校庭の北東側の道を一本隔てた場所に農園があります。


春と秋には筑波対付属の小学生が実習に訪れています。

「明保」の校名の由来は?

 昭和53年(1978年)4月に「明るく開けゆく保谷の中学校」を目指して「明保」と名付けられました。また、一説によると中国の孔子の編といわれる「詩経」の「明哲保身」という言葉から『明保」と名付けられたという話もあります。「明哲保身」とは、ものの道理をわきまえた賢明な人はものごとを適確に処理して身を誤ることがない」という意味です。この「明哲保身」は、開校当時の職員にお話しを伺うと、開校から次の年の第一回入学式で、当時の中井弘教育長の挨拶のなかで初めて出てきた言葉だそうで、この話に感動された当時の鈴木良雄教頭先生が様々な機会にこの話をされて広まったようです。しかし、開校当初の職員にお話しを伺うとこの「明哲保身」の話は開校から暫くはなかったので、どちらが本当かは不明です。


開校30周年ではこの明哲保身が記念の銅板プレートとしてつくられました。

明保中学校はどこの学校から分かれてできたのでしょうか?


秋 紅葉のすすむ文理台公園の桜と校舎

 明保中学校はひばりが丘中学校と青嵐中学校の分身だといわれています。当時の人口増加でどちらの学校も生徒数が多くなり、その対応、適正配置として保谷市内で5番目の学校として開校しました。当時のひばりが丘中学校は30学級を超える生徒数で、授業の際には後ろの生徒まで先生の声が届かないといわれるほどでした。

◇開校当時の生徒数内訳◇
2年生 ひばりが丘中学校より137名、青嵐中学校より7名 合計144名
1年生 新入生として145名
※3年生はいませんでした。

開校当初は明保中学校は今の場所とは違っていた?

 今の住吉小学校が最初の明保中学校の校舎です。開校当初はここに開校し、その後新校舎が今の場所に建設されたことにともなって、昭和58年7月に移っています。元々は今の場所が建設予定地だったようですが、土地の取得に多くの人の努力があったようです。移るにあたっては住吉小学校から先生や生徒たちが炎天下の夏休みに歩いて机や椅子、備品を運んだと記録にはあります。
 なお、住吉小学校は明保中学校が現在の場所に移った翌年の昭和59年4月に開校しています。


現在のの住吉小学校の校舎


開校当初昭和53年の住吉小学校(明保中学校)

関東大会まで出場した部活動は?

平成30年度現在では、記録によると剣道部男子が2回、バドミントン部女子が1回出場しています。

  • 剣道部

平成14年8月、12日・13日 第27回関東中学校県道大会 栃木県
平成19年8月9日 第32回関東中学校県道大会 神奈川県小田原

  • バドミントン部女子

平成30年8月7日 第49回関東中学校バドミントン大会

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明保中学校

住所:〒202-0012 西東京市東町一丁目1番24号
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