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西東京市立谷戸小学校
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谷戸小歴史あれこれ

更新日:2012年5月25日

むかしの谷戸

谷戸は田無はじまりの土地です。そのむかし、武蔵と呼ばれていたこのあたりは原始林におおわれ、ここ谷戸には、昔からわき水があったので、古くから人が住み着いた所と言われています。
また、谷戸は府中と鎌倉に通ずる街道の宿場町として大いににぎわったそうです。この旧鎌倉街道は谷戸に入り、田無第二中学校の正門前から東大農場を横切っています。
田無村発祥(はっしょう)の中心は、谷戸であり、鎮守(ちんじゅ)様白山神社も、今の田無第二中学校の地点にあったと言われています。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

江戸時代の谷戸

江戸幕府(ばくふ)が置かれてから、青梅街道は、城を築くための材料を運ぶ道路として発展しました。また、玉川上水も引かれ、武蔵野の土地には、清らかな水が流れるようになりました。
このため、谷戸の人々は青梅街道沿いに移り住み、谷戸はさびれてしまったそうです。
信仰のシンボル鎮守様は今の田無神社となり、いくつかの寺院はまとめられ、今の田無山総持寺となりました。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

大正時代の谷戸

明治22年田無村は田無町となりました。
大正13年武蔵野鉄道が開通するとすぐに、田無町駅 (今のひばりが丘駅 )ができました。その時の青年団が、勤労奉仕(きんろうほうし)により、駅に通じる道路を開いたそうです。これが、今の谷戸小東側の谷戸新道 (都道319号線 ) です。
山林を切りたおし、谷間をうめて、2キロメートルにわたる道路開発は、言葉では表せないほどの苦労があったことでしょう。
この道路ができたおかげで、谷戸はまたにぎわいをとりもどしたそうです。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

昭和時代の谷戸

昭和4年東京帝国大学農学部実習場ができました。そして、その山林はその後工場などに変わりました。田無病院や、今は別の場に移りましたが、明治薬科大学や会社のグランドが作られました。東大農場はさらに北にのび、田無病院のそばまで広がり、そのうち一部分が、東京大学原子核研究所となりました。昭和10年代には、北原地区に集団の住宅が建設され、商店も増加してきました。戦後は交通機関の発達と道路の拡張によって通勤が便利となり、田無町は都民のベットタウンとして急速に発展しました。
昭和34年、ひばりが丘団地が完成し、谷戸周辺地区には商店や住宅が多く建設され、都市化が急速に進んできました。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

谷戸小学校創立の経緯

終戦当時、8千人まで減少した田無町の人口は、戦後に急増し、たちまち1万人を突破し、昭和22年には1万5千人に達しました。
この年、田無町で生まれた赤ちゃんは700人という多数であり、田無町として二番目の小学校建築を考えなくてはいけなくなりました。
田無町は、いちじくのような形をしていて、そのほぼ真ん中に田無小学校がありました。そこで、人口の広がりから新しい学校は北の方に設置されることになり、その土地えらびが始まりました。
その土地は東大農場の北側の一部を買収することになり。農場の事務長を中心に交渉を進めました。
国有地のため、当時の大蔵省や文部省、東京都などの関係する役所と交渉を続け、昭和28年11月に補助金の交付が認められました。この年の12月には地鎮祭、29年2月には上棟式が行われました。
田無小学校5,6年児童800人が参列し、上棟の綱を持って、木遣り唄に合わせて静かに引いたそうです。お祝いには鉛筆をいただき、校長先生の発声で谷戸小学校の万歳を三唱して式を終了しました。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

合同入学式

昭和29年4月5日、新築工事が終わるまで、田無小学校の南校舎を借りて開校しました。
入学式は校庭において田無小、谷戸小が合同で行いました。
700名の新入児童が校庭いっぱいに整列し、その外側に同じ数の保護者が参列して、文字通り立錐の余地(りっすいのよち)のない盛大な入学式だったそうです。
田無小も谷戸小も、しばらくは4年生以下は2授業だったそうです。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

開校式

昭和29年4月20日、谷戸小学校の開校式を行いました。新築工事現場に全校児童が参列して、式辞と万歳三唱のみの式でしたが、この日を「開校記念日」と定め、当日を休業日とし、お祝いすることになりました。
(西東京市立谷戸小学校沿革誌より。やさしい表現にあらためました。)

野口英世像

【謎の野口英世像】
野口英世像が校庭南側、松林の中にあります。しかし、なぜ野口英世像があるのでしょうか。
これは、開校当時のPTA副会長斉藤市弥さんが「世話になった学校に今まで何もお礼ができなかった。香典で何か学校のためになることをしてくれ。」と遺言をされたそうです。そこで、学校は当時の子どもたちにその寄付金の使いみちを募ったところ「校庭に野口英世博士の像が欲しい。」となり、豊島区の石工宮城政吉さんという方に頼んで作ったそうです。
昭和31年、町の有力者やご遺族、PTA等が見守る中、5月21日に除幕式が行われたと、当時の新聞に載っています。
余談ながら、福島県猪苗代湖に面した「野口英世記念館」にも全国に存在する野口英世像として、谷戸小学校の名前もしっかりと展示されていまず。

谷戸小○周年


ヤットマン

谷戸小のあちこちで目にする、このキャラクター。

真ん中にいるのが “ヤットマン ”、右上から “にじこちゃん ”、“ダンボくん ”、“メタセちゃん ”。左から“メタセくん ”、“しんめちゃん ”です。平成16年度に、谷戸小学校開校50周年を記念して、子供達が考えました。

yattoman
校長先生とヤットマン

ヤットマンは子とも達にも親しまれていて、運動会には本物(!)のヤットマンが登場します。
校長先生とヤットマン・メセタちゃんです。


20年前の谷戸小学校

ヤットマンが登場する以前の谷戸小は、どんな様子だったのでしょう。
ヤットマン誕生の20年前(昭和59年度)から …
校舎の姿は、現在とほぼ同じ形です。いま谷戸小に通っている児童の保護者の方々の中には、ちょうどこの時期の谷戸小に通っていた方もいらっしゃるそうです。
この当時、「いこいの森公園」の場所には東京大学の原子核研究所があって、学校の北側にはその職員宿舎が建っていました。現在は公園に続く遊歩道として整備されています。


更に昔の谷戸小学校

ここから、さらに10年さかのぼると …

南校舎と体育館は今と同じですが、北校舎と中庭の場所は開校当時の木造校舎が残っています。谷戸新道の両側も、今とは少し建物の様子が違います。のどかな雰囲気を残しながらも、少しずつ変わってきている谷戸の町。これから10年先・20年先はどのような姿になっているのでしょうか。

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