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西東京市立保谷第一小学校
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校長室だより

更新日:2024年2月2日

校長室便り8「一人もまた愉し」

一人もまた愉し 

つい先日、新年を迎えたと思っていたのもつかの間、暦の上では、まもなく立春を迎えようとしています。一日一日、確実に日が長くなっていること、日差しがだんだんと強くなっていることを実感する毎日です。天気のよい日の休み時間、多くの子どもたちが校庭に出て走り回り、実に楽しそうに遊んでいます。一方,外に出ず、教室に残って一人で静かに本を読んでいる子、一心不乱にノートに何かを書き込んでいる子もいます。人とのかかわりの中に面白さを感じる子もいれば、自分一人の世界の中に充実を感じる子もいる、ということでしょうか。

私にもかつて、山に登るのが好きな時期がありました。大抵は学生時代の仲間数人とパーティーを組み、テントを担いで沢を登り詰めたり、緑の稜線、雪の稜線を歩いたりと野山を駆け巡っていました。しかし今は、仕事や子育て、介護等、皆それぞれが目の前の生活で一杯になり、たとえ数人であってもスケジュールを合わせることが難しく、次第に山に行くこと自体がなくなっていきました。これは誰もが経験すること、それもまたやむなし、と諦めていたのですが、数年前、突如無性に山に行きたくなり、思い切って単独行を敢行したのです・・・遊んでくれる人のいない寂しい中年を自分もまた、しみじみ実感するのだろうなと思いつつ・・・。
実際はどうだったのか、というとこれが実に面白かったのです。走りたければ思う存分走り、疲れればその場に倒れこんでハアハアと息をし、のどが渇けばあらん限りの水を飲み、眠りたければ大の字で眠り、考えごとをしたければ懇々と考える…「かくあるべし」にとらわれず、「あるがまま」を受け入れる一人の楽しさをしみじみ実感したのです。なぜ今までこの楽しさに気付かず、味わおうとしなかったのだろう・・・一人で山に登るのは決して寂しいことではないと。
もう一つ、コロナ禍での発見です。ここ数年、街中での複数での飲食をできる限り避けるようにした結果、一人での飲食が増えました。あまり行儀がよくないのですが、お店のカウンターに座って、飲み物を飲みながら一人で本を読んでいると次第に精神が弛緩し、心に移りゆくよしなし事をじっくりと噛みしめることができるのです。密度の濃い、とても充実した時間だと実感しました。
社交的で明るくて、友達の多い人にならないといけない、いつも誰かと一緒にいて仲良くしないといけないと思っている子、自分には友達が少ないのではないかと不安に思っている子、きっといるのではないでしょうか。私は,そのことで悩んだり、落ち込んだりする必要はないと思います。一人でいることは、寂しいことではないし、決して悪いことではないと思うのです。考えること、感じること、そしてそれを自分の内部で密やかにふくらませること…実はとても豊かで実り多い時間なのではないでしょうか。
「主体的、対話的で深い学び」・・・これからの学校教育で最も重視すべきことの一つなのですが、この「対話的」という言葉は、人との対話だけを意味するのでしょうか。私は、「自己との対話」も含んでいると思うのです。テレビやパソコン、SNS等から自らを開放し、じっくりと一人の時間の豊かさを実感する・・・大人も子どもも、時には「一人の愉しさ」を味わってみるのもよいのではないでしょうか。

校長室便り7「本年もよろしくお願いいたします。」

本年もよろしくお願いいたします。

皆様おそろいで令和6年の新春をお迎えのことと存じます。昨年は、保谷第一小学校の様々な教育活動に並々ならぬご支援を賜り、誠にありがとうございました。本年もご支援、ご協力のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。
新年を迎えてすぐ、1月1日の夕方に、能登半島で最大震度7の大地震が発生いたしました。東京でもはっきりと分かる揺れがあったので、皆さんも驚かれたのではないでしょうか。1月5日の時点でも、行方不明の方、安否の分からない方が多数いらっしゃる状況です。まず、亡くなられた方々に心からお悔やみを申し上げるとともに、被災された全ての方々にお見舞いを申し上げます。
さて、日付の上では昨年となってしまいますが、先日の2学期終業式で子供たちに話したことを紹介させていただきます。私が子供の頃、遠足は全校で行うことになっていて、場所は新宿御苑でした。あれは確か3年生ぐらいの時のことでしょうか、今に至るまで印象に残っていることがあります。芝の広場を散々走り回った後、気持ちのよい青空の下でお弁当を食べるのがとても楽しみで・・・と言いたいところですが、私のお弁当はご飯がその8割くらいを占める海苔弁で、おかずは竹輪を甘辛く煮たもの。お世辞にも遠足のための特別な弁当と呼べるものではありません。今の子供たちの、おかずが半分以上を占める彩り豊かなお弁当を見るたびに羨ましく思うのはそのころの記憶からです。ですから当時の楽しみは、お弁当の後のおやつの時間でした。おやつ代は200円までの約束。普段200円も使ったことのない私は、喜び勇んで麩菓子や餡子玉などの10円のお菓子をたくさん買い込み、リュックをパンパンにして持って行った記憶があります。同じクラスに海外から帰国してきた一人の少年がいました。いつもニコニコしていて怒っているのを見たことがないその少年は、一粒一粒がきれいな銀色の包装紙に包まれている高級な200円のアーモンドチョコレート1箱だけを持ってきて、そのうちの何粒かをおいしそうに食べています。1箱に10粒しか入ってないチョコレートをあんなにパクパク食べるんだ・・・それだけでも驚きでしたが、次の瞬間信じられないことが起こりました。その少年は、全部は食べきれないからと言ってその包装されたチョコレートを周りの子供たちに分け始めたのです。10円のお菓子1個とチョコレート1個を交換してもらえないかな・・・などと細かな計算をしていた私は、子供ながらにこの少年を尊敬し、同時に自分の浅ましさに下を向いたのを覚えています。
先日、12月9日の土曜日、白梅子ども育成会の皆さんが企画した「へんな運動会」が、3年ぶりに行われました。運動が苦手でも楽しめるというコンセプトで様々な種目があったのですが、その中に「お菓子」をいろいろな方法で獲得する種目がありました。子どもたちは、輪投げや紙すくい等で次々とお菓子をゲットしていきます。手作り感満載で、ほのぼのとしていて、よい雰囲気だなー、と思って見学していると、一人の児童が話しかけてきました。「先生、お菓子をいくつかとれたから、先生にも分けてあげる。どれでも好きなもの選んでね。」
 何の衒いもなく、ごく普通にこうしたことが言える優しさ。物質的ではない精神的な豊かさ。ずっと以前に見た少年の姿を、数十年の歳月を経て保谷第一小学校に見た私はとても幸せな気持ちになり、その時にもらった一本の「うまい棒」を校長室でしみじみと味わったのでした。とても美味しかったです。
自分のことばかりを考えるのではなく、周りの人のことを大切に思う素晴らしい子供たちが、保護者、地域の皆様のおかげで育っていることを実感した冬の一日となりました。企画してくださった育成会の皆様、そしてお手伝いくださったPTAの皆様には改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。そして本年もよろしくお願いいたします。

校長室便り6「大谷選手のMVP」

大谷選手のMVP

 アメリカの大リーグで、先日今年度のMVPが発表されました。現代においては実現不可能と言われた投打の二刀流で、日本人初のホームラン王を獲得した大谷翔平選手が満票で選出されました。2回目のことです。マンガの世界ではあり得ても・・・と驚嘆した方も多かったのではないでしょうか。
抜群の身体能力、天賦の才能と努力が強調される大谷選手ですが、高校時代の野球部監督、佐々木さんは別の面から、概略こんなことを言っています。「私が育てるとかはなかったです。考え方に関してだけはしっかり話をしましたが、環境さえ与えれば自分でアップデートしていく選手です。目標を設定させ、邪魔せず見守って、経験さえ積ませれば、自ら上がっていくので。そういう姿勢はプロになってからも、アメリカに行ってからも変わらない感じがします。」他にも大谷選手をよく知る人は、異口同音に言います。「自分で自分を成長させられる選手だった。」このことの意味は大きいと思います。 
厳格な指導者の下、指示されたハードなトレーニングに耐え、技術と精神力を鍛える、または優れた指導者の下、科学的、合理的なトレーニングを様々なスタッフのアドバイスの下に実行する、これが今までのコーチングの基本でした。そして、この指導によって素晴らしい成績を残した運動選手もたくさんいます。
一方、現千葉ロッテマリーンズの吉井理人監督(元投手コーチ)は、「コーチの仕事は、選手が自分で考え、課題を設定し、自分自身で能力を高められるように導くことだ」と言っています。自ら大リーグの選手として活躍した後、指導者として経験を積み、さらに大学院でコーチングについて学んだ吉井さんが出した結論です。
この2つの指導法、効率を考えれば前者のほうが良いのでしょう。しかし、先を考えた場合どうでしょう。さらに高い目標や必ずしも答えのない課題、前例のない新たな課題に対しては?教えられたこと以上のことは、難しいかもしれません。後者の場合はどうでしょう。確かに時間はかかります。しかし、選手自身が自分で考え、それを解決した経験があります。この経験をベースにもっと高い目標にチャレンジできるよう自分で自分を成長させられるかもしれません。これが「自己教育力」の力です。そして、この力に限りはありません。
このことは、学校での学習にも言えます。例えば、小、中学校、さらには高校で学ぶ算数や数学の内容は全て合わせても,数学(論理)という巨大な森から見れば、何万分の一に過ぎないでしょう、たとえハードなトレーニングによって難関理系大学の難しい受験問題が解けるようになったとしても。大切なのは、その一を自分の力で二に、五に、そして十にしていく力で、それこそが「自己教育力」です。小学校で学ぶ分数のわり算、やり方を教えれば4年生でも短時間で習得できるでしょうが、6年生で何時間もかけて自力解決を通して学習するのには、こういう狙いがあるからなのです。
誰もが大谷選手のようになれるわけでは勿論ありません。しかし,自己教育力によって自分の人生を豊かで、喜びに満ちたものにできるかもしれない。そういった意味で誰しもがMVPの資格をもっている・・・。大谷選手のMVP受賞に励まされた初冬となりました。

校長室便り5「読書の愉しみ」

読書旬間を迎えて 〜読書の愉しみ〜

 保一小では、10月26日から11月10日までを読書旬間として、子どもたちが本に親しみ、読書の楽しみを味わえるよう様々な企画をしております。図書委員の児童が、低学年、中学年、高学年ごとにお薦めする本をまとめた「本の福袋」は大人気で、私が図書館に行った時には全て貸出済となっておりました。他にも「先生のお薦めの本紹介」や「読書バイキング」など、子どもも大人も楽しめる取組を予定しています。秋の夜長、ご家庭でも本の話で盛り上がる機会を作っていただけますと大変ありがたいです。
私が小さな子どもだった頃、とても好きだった本とアニメがありました。それは斎藤隆介作の絵本「八郎」とTVアニメ「未来少年コナン」です。前者は自分で読んだというよりも、当時の担任の先生に何度もせがんで繰り返し読んでもらったものです。後者は、誰に言っても、何度言っても「名探偵コナンのこと?」と返され、話が通じず残念な気でいました。40年位前のアニメで私自身の記憶も薄れ、ストーリーすらよく思い出せないくらいなので仕方ないのですが。そんな中、コロナ禍でテレビ番組制作が進まなかったからなのでしょうか、数年前、NHK総合で「未来少年コナン」の全話が再放送されたのです。私は歓喜し、毎週欠かさずに全話を見たのでした。昔話風の「八郎」と近未来の話「未来少年コナン」、全く毛色の違うこの2つの作品に共通するものとは。当時の自分にとって何がそんなに魅力だったのか、その時、何となく分かったような気がしました。それは、一言でいえば「心優しき野蛮人」ということです。言動は粗雑だし、洗練さとは無縁ですが、ひたすら強く、心優しき漢たち。「粗にして野だが卑ではない」を地でいく姿に,決してそうはなれない脆弱な自分をよく分かっているからこそ、憧れたのでしょう。
 閑話休題。これからの変化の激しい社会を生きていくうえで重要になる力は、問題解決の力だと言われて随分時間が経ちました。人は誰でも生きていく上で未知の困難な局面にぶつかり、必ずしも答えのない問題に対して、決断して行動していかなければなりません。また、自分のことだけでなく、周りの人間とも折り合いをつけ、互いが幸せになれるようにしなければなりません。だからこそ、知識の習得にのみ重点を置くのではない「主体的、対話的で深い学び」が求められています。一人一人が成熟社会を幸福に生きていくための学習です。さて、この「対話的」という言葉、「他者との対話」だけなのか。私は、「自己との対話」も含んでいると考えます。その「自己との対話」の最たるものが読書でしょうか。
ある読書家がこんなことを言っています。「読書は面白くないという人がいる。早まってはいけない。読書には段位というものがあるのだ。やっと初段の人に三段や四段の本の面白さが分かってたまるものか。それなら四段になったとき読む本がなくなってしまうではないか。」「しかし、高段者になってから初級者向けの本を読んで、やはり面白い、と思うこともしばしばある。“坊ちゃん”などはそうだった。そういう本を名作というらしい。」
 「坊ちゃん」に「八郎」や「未来少年〜」と共通する要素があるかを考えてみるのも面白そうです。また、「坊ちゃん」に文庫本解説の江藤淳氏指摘の敗北の寂しさを読むことも可能でしょう。しかしそんな深い読みをしなくても、いわば読書初心者でも楽しめるのが“名作”の素晴らしいところ。秋の夜長、実りの秋、柿や栗をぼそぼそと食べながら、子どもも大人もしみじみと読書をしてみるのも悪くないのではないでしょうか。読書旬間は終わっても、読書の愉しみはずっと続いていきます。

校長室便り4 「問題解決の愉しみ」

問題解決の愉しみ 

 長い夏休みが終わり、子どもたちの元気な声が聞こえています。皆様方には、夏季休業中も子どもたちのために様々なご理解ご支援を賜りました。誠にありがとうございます。
少し前、お盆休みの期間に、海の防波堤で丸一日釣りをしてきました。それでもまだ足りず、たとえ半日でも時間ができれば、今度は千葉の海岸に遠征しようと思っております。と言うと釣り歴何十年のベテランに聞こえますが、始めたのは3年ほど前、上手な人に教わったわけでもなく、全くの見よう見まねで釣りをしている初心者、より正直に言って素人です。
 釣りの何がそんなに楽しいのか。狙い通りに魚がかかった時の満足感、大物がかかった時の手応え、高揚感…うまい人ならそうでしょう。でも私はほとんど釣れたことがないのでそんなこと言えるわけもありません。では、なぜ? それはそのプロセスにあるのではないのかと思います。
(1) ソーダガツオのような大物が釣りたい!・・・目標の設定
(2) そのために何が足りないのか、何が必要なのか?・・・課題の発見(設定)
(3) 道具、仕掛け、餌、場所、時期、潮の満ち引き、狙うポイント!・・・見通し(方策)
(4) 実釣! 釣って、釣って、ひたすら釣りをします・・・取り組み(実践)
(5) 釣れた!(なぜ釣れた)、釣れなかった!(なぜ釣れなかった)・・・結果の分析(振り返り)
 次はもっと、次こそは必ず・・・新しい課題を発見し、(1)に戻ります。かくしてこの無限ループの魅力から逃れられないことになります。いろいろ考え、試してみるのが楽しいのです。さて、ここまで書いてきてふと思いました。このプロセス、学校で行う問題解決型の学習にそっくりなのです。そして、世にある趣味、遊びには多分にこうした要素があるのではないでしょうか。ですから「学習」=「遊び」ということも言えるかと思います。 
 これを子供の「学び」の視点で考えるとどうでしょうか。やり方を教わって、それを繰り返しのトレーニングによって忠実にトレースできるようにして、その正確性や早さをチェックし、競う・・・。できなかったことができるようになる喜びはあるでしょうが、そこに楽しさ(主体性)は見いだしづらいかもしれません。たとえ失敗しても、自分で考えて試してみるところに学習=遊びの楽しさがあるのですから。子供たちには、「学び」が本来とても楽しいものだということ、そして「学び」は、学校の段階で終わるのではなく、人生のずっと先まで続く「愉しみ」であることを分かって欲しいと思います。そのための一歩、自分の好きなことを見つけ、失敗しつつも、それをとことん楽しむ「遊び」をたくさん経験してほしいと思います。楽しさや好奇心は、全ての知的活動の源泉です。
 家人からは、「プロセス云々、うんちくを言っている暇があったら、ちゃんとした魚釣ってみれば!」と言われ、返す言葉もないのですが、あらゆることに生産性が求められる世の中で、あえて非生産的な愉しみを味わっていることが分からないなんて、幸せの薄い人だな、とさらに負け惜しみを重ねています。しかし、いかに「釣れないことを楽しむのが釣り」とは言っても限度があるので、近日中に大物が釣れるよう、今日も問題解決に励みます。

校長室便り3 「自分たちのことは、自分たちで」

自分たちのことは、自分たちで

 先日実家の近くの歩道を歩いていると、反対から自転車に乗った人が近づいてきました。自転車を除けようと歩道の右側に寄ると、その方も同じ方向に除けようと右側に寄ってきました。私はそれをさらに除けようとさらに右側にあるお店の階段に上がって待機しました。すれ違いざまのことです。その方は私に向かって厳しい口調で言い放ちました。「左側は自転車優先です!」その顔は、正義感と優越感に満ち、ある種神々しい程です。私は、「自転車にとって左側は、反対から歩いている私にとって右側だし、そもそも歩道は歩行者優先で、自転車を含む車両は車道を通るべきでは」とも思ったのですが、その方の整った顔を歪ませるのも野暮ですので、そのまま通り過ぎました。
 この話を友人にしたところ、「昔は人に威張ったり自慢したりするのは社会的地位の高さとか、財力とか、ある種限られていたけれど、今は誰もが威張れるようになって、その威張る根拠がルールになっているのかもしれない。だから、いとも簡単にルールをもち出しては印籠のように振りかざして相手を黙らせる。言い返そうと思えば言い返せただろうけれど、それをしたら相手と同じだから、何にも言わなくてよかったじゃない?」と言われました。
 今から少し前、日本を代表する知性と目されている方が、その著書で概略こんなことを言っていました。「ルールを整えること、増やすことを進歩だと思っている人がいるが、退歩である可能性も十二分にある。人間同士のちょっとしたトラブルなんてどこにでも転がっているし、そうしたものはたいてい当事者同士で解決できるものなのに、〜権とか規則をもち出して、ルールで相手を黙らせる、やっつける。自分たち自身で問題を解決するのを放棄し、自分以外の他者やルールに依存して、自ら解決する能力を弱らせているのではないか。」一言で言って、自治の気概、相互扶助の精神を忘れ、他人任せ、制度任せにしかねない我々現代人への警句と言えるでしょうか。
 さて我らが保谷第一小学校の子供たちはどうでしょう。先日の保一まつりでのことです。学級会で考え、決めた出し物の運営にみんな大忙しです。アトラクションの説明をする子、混雑するお客さんを整列させる子、ポスターを手に宣伝に歩き回る子、皆それぞれの役割を自覚し、誰に頼るでもなく、自分たちのテナントをもり立てています。「自ら行う、共に行う」まさに自治的精神に満ちた子供たちの姿がありました。私たち大人は、ここで内容の稚拙さ云々を問題にするのではなく、自主自立の素晴らしさを褒めるべきだと思うのです。この子供たちが、将来この地域を大切に思い、地域の活動やお祭り、イベントをきっと盛り上げていくのだろうと確信しました。逞しくて優しい保谷第一小学校の子供たちを大変誇りに思った一日でした。

校長室だより 2「大人の度量」

大人の度量

 私は幼少のころ、とても落ち着きがなく、よく道端で転んでは擦り傷をつくっていました。小学校に入学してからは、文字をノートのマス目の中に収められず、枠外にはみ出して書いていた記憶があります。困った母親は、集中力と落ち着きを身に付けさせようと、私を近所の友達と共に書道教室に連れて行きました。一年生の秋ごろだったと記憶しています。
初めて筆でひらがなを書いた時のことです。友達は半紙の中に字をきちんと収めているのに、私ときたら墨を大量につけ、力を入れ過ぎるため、極端に太い字になり、半紙は破けてしまいます。何度やってもその繰り返し。これは絶対に叱られると思いつつ、書家でもあるその教室一番の先生にそれを持っていきました。字を一瞥した先生は、信じられない言葉を口にしました。「これは素晴らしい。」 そして、その日に書いた習字全てに大きな丸をくれたのです。
破けても、はみ出してもいいんだ・・・私は何だかうれしくなって、それから毎週教室に通うようになりました。先生は毎回大きな丸を付けてくれます。私はうれしくて、添削が終わってからも傍で先生の一挙手一投足を見るようになりました。大きな硯で墨を磨る様子、とても難しい草書の手本を書く様子、全てが流れるようで面白く、じっと見入っていました。数年後、一緒に入った友達よりも何故か遥かに上達し、 いくつか賞をもらうようにもなりました。
私は後年、「あまりにも不器用で下手過ぎる少年を勇気づけるための教育的配慮に見事にのったのだな」と気付き、先生に感謝しました。しかし今は、事はそう単純ではないと思っています。小学校一年生の子供に必要なことは、半紙に細い整った字を書くことではなく、墨汁をたっぷり付けた筆で太い字を、たとえ半紙からはみ出してしまっても、半紙が破れてしまっても伸び伸びと書くことだと先生が思われていたからではないか。
子供の中に大人を見出そうとしない。子供は小さな大人なのではなく、その年代ごとに特有の世界観をもっている。そしてそれを経験し、自らクリアしていく(獲得していく)ことがその後の成長にとって非常に大切な意味をもつ。これが「エミール」の骨子で、いわゆる「発達段階」の考え方のもとになっているものです。先生はこのことを深い経験から直観されていたのかもしれません。
最近こんな話を聞きました。中学受験対策に熱心な塾の中には、頻繁にテストを行い、これをもとにクラス分けをかなりの頻度で行うところがあるそうです。これをシステムとして割り切って利用するやり方はあるかと思います。残念なのは、この点数やクラス分けを子ども自身が自分あるいは他者を評価する尺度としてしまい、必要以上の優越感をもったり、劣等感をもったりするケースがあることです。人間の資質・能力のごく一部でしかない学力の、そのまたごく限られた部分を切り取ったテストの点数で自分や人を測る脆弱さ、塾(世間)の物差しで自分や他者を判断する主体性の脆弱さ、これがたまらなく残念なのです。
私の考える、小学校段階で子供が経験し、獲得していくべき事柄は、「自己肯定感」です。自分で決め自分で行動する主体性、その結果うまくいっても、うまくいかなくても、それもまた自分と受け入れる自信、人との違いを違いとして受け止める自信、これら全てが自己肯定感です。自己肯定感の高い子供は、他者を受容する力もぐんぐん伸び、寛容で器の大きな人へと育っていきます。
子供の中に大人を見出さない…私たち大人の度量が試されているのかもしれません。

校長室だより 1 「心の安定」

心の安定 〜全ての教育活動の基盤になるもの〜

 みなさんは、「新美南吉」という名前をご存知でしょうか。「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」の作者と言えば、うなずかれる方も多いと思います。特に「ごんぎつね」は、50年以上前から4年生の国語教科書に取り上げられ、70歳以下のかなりの方が読んでいる作品です。数ある童話の中から、今回は「狐(きつね)」という作品をもとに、子供たちの心の安定について考えてみたいと思います。あらすじは次のようなものです。
七人の子供たちが小さい村から半里ばかり離れた本郷へ、夜のお祭りを見にゆきます。途中で、一番年下で甘えん坊の文六ちゃんが遅れ始めました。大人用のぶかぶかの下駄を履いているからです。途中で下駄を買うことにしました。
「やれやれ、晩に新しい下駄をおろすと狐(きつね)がつくというだに。」どこかのお婆さんが言いました。「迷信だ。」と言いながらも心配そうな顔の子どもたちを見て、下駄屋の小母さんがマッチをするまねをして、おまじないをしてくれました。
子供たちは、夜祭りで綿菓子を食べたり、稚児さんを見たり、鼠花火やかんしゃく玉をはじかせたりして楽しみますが、やがて三番叟(さんばんそう)の人形・・・影の多い光の中でまるで生きている人間のように、まばたきしたり、ぺろっと真っ赤な舌を出したりする人形・・・の不気味さにすっかり元気がなくなってしまいます。
子供たちは思い浮かべました、文六ちゃんの新しい下駄のことを。そして、気づきました。自分たちが長く遊びすぎたことを、これから半里の夜道があることを。
帰りの夜道で誰かが「コン」と咳をします。考えることはみな同じ。往きの時、あれほど文六ちゃんに優しかった子供たちが、1人また一人と言葉少なに帰ってゆきます。少し離れた文六ちゃんの家へ送ってゆく子がいません。いつもだったら誰かが必ず送ってくれるのに。一人ぼっちになった文六ちゃんは、祭りの楽しさも忘れ、もしや自分は本当に狐につかれているのでは、と不安になります。そして、恐ろしくなってきます。自分が狐になった時、家の人はどうするのだろうと。お母さんと一緒に布団に入った文六ちゃんは、聞きます。「もし、ぼくが本当に狐になっちゃったらどうする?」「ねー、ねー、ねー?」

さて、この時、母親は、何と答えたのでしょうか。私たちなら何と答えるでしょうか。者の新美南吉は、母親にこう言わせました。
「一緒に狐になってあげる。」
母親にとって、文六が人間であるか、狐であるかは問題ではなかったのです。今、目の前にいる文六そのものを大切に思っていたのです。子供には、一人一人、良いところや得意なことがあります。同時に短所や不得意なこともあるでしょう。人に優しくできる子もいれば、素直になれず、つい意地悪をしてしまう子もいます。大切なのは、長所や短所でその子を判断するのではなく、長所も短所も全て引き受けて愛情を注いでやることなのではないでしょうか。
これは、子供の言うことを何でも聞いてやったり、甘やかしたりすることではありません。やるべきことはしっかりやらせるべきですし、ダメなものはダメと善悪の判断も教えなくてはなりません。その上で私たち大人が「一緒に狐になってあげる」と言ってやれるならば・・・子供たちの心は安定し、自信をもって生きていけるのではないでしょうか。自分に自信をもてれば、他人に対しても優しく、寛容になれるのです。「子どもにやさしいまち 西東京市」の基盤は、こんなところにもあるのではないかと考えます。

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