栄小学校の歴史 その1 開校から昭和56年まで
更新日:2013年5月1日
昭和45年の開校から昭和56年頃までの11年間の栄小学校の歴史について紹介いたします。
本校は、昭和45年に保谷第一小学校、中原小学校より子供たちを迎えて開校しました。当時の栄小学校は、「南に竹林を望み、東には、亭亭たる欅の木を配し、北には、乳牛の姿を遠望できる環境あり」、「教育にもっとも必要な環境に恵まれている」と言われました。現在は、近年の都市化により、住宅が多くなってきましたが、子供たちが学ぶよき教育環境は40年経った現在も変わらず維持されています。
開校以前
学校ができる前、南側の様子
平成25年現在の同じ場所
保谷市議会で学校を建設することが決まったのは昭和44年2月24日でした。同じ年の8月23日より16教室と階段の建築が始まりました。建設が始まる前のこのあたりは、畑で、現在のプールがあるあたりは池があり、ガマガエルが多く生息していました。狐や野ウサギもたくさん見かけられたました。
開校 昭和45年
開校当初の校舎の様子
開校当初の児童数は保谷第一小学校より327名、中原小学校より138名、合計619名程度で平成25年の現在より100名以上も多い人数でした。建築費は当時のお金で3億3千2百74万5千7百円という記録が残っています。
開校当初の正門から登校する子供の様子。
校庭は工事中のため、最初の入学式(昭和45年4月6日)や開校式(昭和45年5月1日)は、屋上で行いました。また、開校当初から給食も始まり、最初の献立は「袋入りパン、牛乳、チーズ、みかん」でした。この献立は暫く続きました。
校庭が使えるようになったのは同年の5月4日でした。この日に朝礼を初めて校庭で行っています。
開校当初の校舎からの眺め 富士山が近くに感じます。
同年の5月6日には、給食室の火入れ式が行われ、本格的な給食が同年の5月11日にスタートしました。献立は、「バン、牛乳、副食」たまに小さなミカンが半分付きました。フライや肉団子は業者が半加工した物に火を通して調理して提供していました。
校章
校章ができあがったのは昭和46年3月14日です。
校章の意味や願いについてはこちらをご覧ください。当時の図工の先生が作られました。
校歌
校歌にも歌われる牛小屋の様子。この牛小屋は平成19年までありました。
昭和46年3月15日に校歌ができあがります。この校歌は、2学期に児童から歌詞を募集し、国語部の先生たちを中心に選考を重ねて、当時の5年生2組の児童の詞が明るい子供らしさと、栄小学校の周りの情景や未来の姿をよく歌い込んでいることから、選ばれました。
3学期に入って作曲の募集が音楽部の手で進められ、最終的に残った2曲を6年生児童のに聴いてもらって投票した結果、現在の曲が校歌として決定しました。最終選考に残ったもう一曲は第二校歌として歌う計画もあったようですが、残念ながら現存していません。
校庭の様子
工事の残土が積まれた現在のプール付近の校庭。
開校の年の校庭は最初は柵もなく、工事でできた残土が高く積まれていました。これが固まって「栄富士」と呼ばれるようになりました。
校庭の柵ができあがった頃の校庭。まだ遊具はありません。
校庭の様子
昭和45年6月10日には校庭に、すべり台、うんてい、ジャングルジム、のぼりぼう、かいせんとう などが設置されました。かいせん以外は今も残っています。
移動教室
第一回の移動教室のしおり 場所は日光です。
しおりの中を見ると、6時に学校に集合してバスで日光へ向かっています。夕食後は「和楽おどり」という今のフォークダンスのような企画が見られます。
和楽おどり。室内でのレクの様です。
この頃の移動教室の様子。
日光の湿原を行く子供たち。
プール
昭和46年6月にプール工事が始まりました。
今のプールのできる前は湿地で沼のような場所だったようです。
プールの完成は昭和46年8月です。
木々の中にプールがある様子がよく分かります。
プールのなかった開校1年目は隣の保谷第一小学校のプールを借りて6年生だけ授業を行っていたようです。翌年にできあがったプールは、アルミ製の最新式のプールで、全国から視察があったようです。昭和46年8月2日には、プール開きがあり、2年生が初めてプールを泳いだ記録が残っています。
年度 | 主な出来事 |
---|---|
平成45年度 |
開校 |
昭和46年度 |
VTRによる校内テレビ放送開始 |
昭和47年度 |
校舎増築工事終了 図工室、普通教室6 |
昭和48年度 |
「はたらく消防写生会」学校受賞 |
昭和49年度 |
第1回学芸会 |
昭和50年度 |
校門および柵完成 |
昭和51年度 |
緑化3年計画完成 卒業生148名 |
昭和52年度 |
スプリンクラー設置 卒業生155名 |
昭和53年度 |
プレハブ校舎完成 |
昭和54年度 |
バスケットボールゴール板設置 |
昭和55年度 |
プレハブ校舎なくなる |
昭和56年度 | 11周年記念 |
昭和47年1月の栄小学校全景 体育館もプールもありません。
昭和47年6月頃には現在の校舎の形になります。
児童数増加のために昭和47年6月から10月までに現在の西側の図工室や多目的室側の校舎の建て増しが行われました。3階、4階の一番西側の普通教室が他の教室より少し大きいのはこのためです。
体育館
体育館の工事が始まったのは昭和48年10月30日です。
体育館完成は翌年49年5月です。
記録によると昭和49年3月に体育館で卒業式とあり、完成前にも体育館で卒業式が行われていたことが分かります。それまでの卒業式は音楽室で行われていたこともあったようです。
運動会・学校行事
第一回の運動会の様子。この競技は「おいかけたま入れ」。
体育館での書き初めの様子 昭和50年1月
この頃は毎年マラソン大会が開催されました。
マラソン大会では、1、2年生は約600メートル、3、4年生は約1000メートル、5、6年生は男子2000メートル、女子1600メートルを走っていたようです。
七夕集会。昭和51年頃です。
こいのぼり集会
学級毎に紙や布で工夫して作った大きなこいのぼりが大空に泳ぎます。写真は昭和54年の集会の様子です。
昭和55年の運動会。手作りの大玉。そして奥にはプレハブ校舎が見えます。
同じく昭和55年の運動会。万国旗のたなびく校庭で。
昭和54年、展覧会の様子です。
空き缶で制作した全校共同制作の大帆船は毎日新聞に掲載されたという記録が残っています。
卒業式
昭和47年頃の卒業式。写真からは場所は音楽室と思われます。
体育館での卒業式。第7回昭和51年度です。
変わりゆく栄小学校
昭和50年に花の広場ができます。桜やケヤキの木もまだ、小さいようです。
西友などビルと牛が見える栄小学校のベランダ。昭和55年頃の様子です。
昭和55年頃には栄小学校の近辺にも住宅が多くなってきました。
校庭南側の竹林が半分になって3階立てのアパートが建ちます。
現在もある「わんぱく公園」の名前は子供たちが考えたものから選ばれました。昭和55年
ひばりが丘北わんばく公園は昭和55年に開園式があり、栄小学校の3年代表児童が出席したようです。
栄小学校昭和49年頃の給食。パン、マーガリン、サラダ、リンゴ、牛乳の献立です。
昭和56年頃の南門の様子。
現在の南門
南門のヒマラヤスギは昭和50年に子供たちがみどりの広場として植えたものです。中央の木はかなり大きくなっていますが、当時あった右から2番目の小さなヒマラヤスギは今はありません。
図工の広場・卒業制作
図工の広場
現存していない図工の広場
プレハブの跡地を使って鉄筋、セメント、ブロックなどで子供たちと一緒に「図工の広場」を昭和55年9月から12月まで作ったようです。場所は今の飼育小屋の隣で、手作りの椅子などが置き、キンモクセイの木を植えた様です。
昭和49年3月20日の毎日小学生新聞に栄小学校の卒業制作の記事が紹介されています。
この頃は卒業制作で図工の作品がたくさん作られました。
昭和45年から平成19年までの卒業制作の紹介はこちらをご覧ください。
昭和56年には栄小学校は10周年を迎え記念誌が発行されたり、様々な行事が行われました。
ほぼ現在の形になった栄小学校 昭和56年頃